私の人物像の「レシピ」をちょっとだけ公開。

百太郎ヒストリー

バレーボーラーとしての百太郎

1977年、公務員の父とバレーボール大好きな母の間に生まれました。生まれてすぐにベビーバスケットに入れられ、母のバレーボールの練習に連れて行かれる日々。気づいた時にはボールがおもちゃになっていました。

 

子供の頃、気づいたときにはスポーツが大好きで、剣道、水泳、バスケットボールなどいろいろやらせてもらいましたが、母や幼少期の環境の影響が大きく、中学で13歳からバレーボールを始めました。春の高校バレー、インターハイ、国体などの大会に出場して成績を残しつつ、26歳まで現役プレーヤーとして続け、39歳まで監督として関わりました。

 

単なるプレーの技術や体の使い方だけでなく、物事の取り組み方、モチベーションの上げ方、メンタルケア、上手くいかないことや理屈だけじゃないことへの向き合い方など、生き方そのものをバレーボールから幅広く学びました。特に監督としての経験は、視野を広げて視点を増やすことに大いに役立ちました。百太郎の人物構成の土台は、バレーボールを通じてでき上がったと言ってもいいでしょう。


教師としての百太郎

バレーボールに深く取り組んでいく中で、自分よりも恵まれた体格や素質を持つ選手たちが、環境や指導者に恵まれず伸び悩む姿を目の当たりにする場面がよくありました。「1人でも多くの夢や目標を達成させるサポートができる指導者になりたい」という思いがいつからか強くなり、高校時代から教師を本格的に目指し始めました。

 

残念ながら教員採用試験はうまくいかず、公立高校の講師として教員生活をスタートさせました。2年間の講師生活を終えようとしていた時、私立の学校からお声掛けいただき思い切って飛び込むことに。若くしてチームの監督になりました。与えられたミッションは「チームの成績をあげること」「魅力的なチームに変えること」の2つでした。とにかく自分の経験を選手たちに伝えていく。選手たちが自分の考えに賛同し、実践してもらえるよう懸命に時間を割きました。幸にしてチームの成績はスタートより向上するも、今ひとつ成果が出ない。二つのミッションを両立させていくためには、これまでの手法ではだめだ!と思い「コーチング」を学び始めました。


コーチとしての百太郎

「全てを教えること」から「自ら考えさせる」「主体的な行動を促す」という方向へ。コーチングの知識を基に指導法を変えたとき、今まで感じたことのなかった選手たちの成長に対する意欲や、自分たちでチームを作り上げようとする前向きな姿勢を強く感じました。「教えること」は「考えさせること」よりも簡単で、一時的な変化を作り出しやすいため、「ティーチング」から「コーチング」への移行はさまざまな葛藤がありました。ですが、みるみる力を発揮する選手たちの姿を目にすることで、「主体性を育む」ことがその人の可能性を広げて、後々の大きな変化に繋げられる最大の手法なのだと確信したことによって、自分の指導法をシフトチェンジすることができました。

 

戦績の向上とともに、主体的に考え行動する選手たちの姿は、保護者や近隣の中学生からも評価を得られるようになり、「あのチームの一員になりたい!」と言ってもらえるような魅力的なチームに変身することもできました。「コーチング」の可能性を感じたのはスポーツの分野だけではありませんでした。担当するクラスにコーチング的なアプローチを積極的に導入したところ、定期テストの結果では同じコースの他クラスと大きな差ができるようになりました。


人事担当としての百太郎

教員を15年続けてきたあたりで、人材育成に悩む大人の社会の声を多く耳にするようになりました。社会人になった教え子たちと話していると、会社の教育に不満を持っていたり、後輩の育成に悩んでいたり。自分が送り出した教え子たちの多くが悩みを抱える「会社」という組織では何が起こっているのか。大人たちがワクワクする環境を創り出すには何が必要なのか。自分の中でしっかりと向き合いたいという想いが湧いてきました。このまま教員でいてはわからない謎を解いてみたい。そんな衝動から、一般企業の人事職への転職の道を選びました。

 

入社後、多くの方が自分のキャリアや人間関係に悩む姿を目にして、なんとかこの状態を自分の手で解決したいと思い、国家資格である「キャリアコンサルタント」の資格を取得しました。この時に改めて、悩める大人は自分が勤める会社だけじゃなく、世の中にもたくさんいることを痛感しました。各社員のキャリア作りに積極的に関わろうとしている会社もある一方で、そこまで手が回っていない会社もたくさんある。そんな事実を目にした時、自分が得た資格とこれまで実践してきたコーチングを、大人にも提供したいと思い現在に至ります。